たとえこじれたとしても。

アダルトチルドレンと対人関係のことを書こうとしていたけれど、
自分のこれまでの対人関係を書いている。
けれど、これまでの対人関係での躓きや後悔が、そのままアダルトチルドレン
分析と回復へのヒントになっているのだと思うことにしている

アダルトチルドレンの特徴として、白黒思考がある。
良いか悪いか、好きか嫌いか。
人間関係でも、この白黒思考(極端な思考)が顔をのぞかせる。

私にとって、長らく、一度こじれた人間関係は、決して元に戻せないものだった。
正確にいうと、元に戻す方法、反省して、すり合わせて、相手の気持ちを考える。それが全くわからなかったし、できなかった。

これによって、すごーく損したんだと思う。

小学校時代の親友に会いにいけなかったときの「ヘンなプライド」は、
多分、受け入れてもらえなかったらという不安、一度隔たってしまった距離を埋めていく方法がわからなかったからだと思う。
中学・高校の親友。大好きだったのに、また「ヘンなプライド」が邪魔して、
彼女の結婚式を欠席してしまった。たくさんいる友達の中から、私に是非、結婚式に出席してもらいたい、と言ってくれたのに、「たくさん友達がいるなら私なんて必要ないじゃない」と勝手に臍を曲げて、それから連絡を取らなくなってしまった。これも、彼女の好意が嬉しいのに、
その受け取り方がわからなかったからだと思う。
大学の友人。心を開いて私と向き合おうとしてくれたのに、情けをかけられているようで、「ヘンなプライド」が邪魔して、自分から疎遠になってしまった。

私にとって、「拒絶」されることは、想像を絶する恐怖なのだと思う。
アダルトチルドレンであると自認して、回復に向けて動き出すようになってから、それを少し客観的に捉えられるようになったけれど、「ヘンなプライド」の
正体は、「拒絶されることへの恐怖」「誰からも必要とされていないと気が付かされることへの恐怖」なのかもしれない。

私の人生、そんな私の「ヘンなプライド」の存在も含めて、そっくり私を受け入れてくれた人に実は恵まれていたのだと思う。最近は、恵まれていた、素直にそう思えるようになった。

一度喧嘩しても、こじれても。元に戻す方法はあるし、私がその気持ちで、
相手も気持ちが合って向き合ったら、前よりもむしろいい関係が築ける。

それを教えてくれた、今の彼にとても感謝。
彼は、私のこれまでの大切な友人のように、自己肯定感をきちんと持っていて、
温かくて優しい人。
彼といると、私もどんどん優しくなっていく気がする。

彼のことは、また書きたい。

今日は、白黒思考にとらわれ続けていて損をしたかもしれないけど、
もう元に戻していく方法を教えてもらって、実践できるようになってきたから、
何かあっても向き合うことをトライしてみよう、ってことで。

 

アダルトチルドレンと対人関係~その2~

東北某県の小学校をひっそりと卒業し、東京へ戻ってきた。 2000年3月のことだった。東北某県で、1997年の夏から2年半を過ごした。

(実際には、私立中学受験のため、母親が私を塾に通わせたがったが、 居住地の東北某県では、そもそも私立中学がほとんどなく、日○研等の 中学受験塾が存在しなかった。苦肉の策として、夏休み等の休暇期間だけ、 東京の祖父母の家に居候させてもらい、塾の夏期講習等に通っていた。 そのため、長期休暇はほとんど東京で過ごしていた。)

だから、実際には2年ちょっとの間、東北某県に居たことになる。 東北某県の小学校では、東京から来た転校生はとても珍しい存在だった。 「東京から来た」というだけで村八分にされたことがあった。 今思うと、いじめの一種だったのかもしれないけれど、そのことを母親に話す方が、 その環境で我慢して耐え忍ぶより辛いことだったので、母親に学校のことを話すことはなかった。

 

長期休暇に塾通いのため東京で過ごす。それが非日常で、私にとってはむしろそれこそが居場所のように思えた。 母親の恐怖から逃れられるし、祖父母は私に甘かった。 住みなれた東京で、田舎の子供が知らないようなファッションや音楽に触れる。 「自分はあんな田舎のダサい子たちとは違うんだ」と自分に言い聞かせていたのかもしれない。

不思議と、東京で過ごす長期休暇の間に、彼女のことを思い出すことはなかった。

電車で1駅程度、車で行けばわずか15分かそこらの距離の祖父母の家に居候していたのに、 塾に通い、「都会っ子」の生活を楽しんでいると、あっという間に休暇は終わってしまった。 その頃はまだ元気だった祖父に、「前に済んでいた家をみたい」といえば、すぐに連れて行ってくれただろう。 なのに、頼むことはなかった。

 

彼女に「東京に戻る」とはっきり伝えることもないまま、東京の私立中学の1年生になった2000年4月。

中学受験をパスして入学してきた周りのクラスメートは皆、東北某県の小学校の同級生と違ってみえた。 「今度こそ、学校で自分の居場所を作りたい」 その思いで必死だった。

男女比では女子が多い学校で、その中でも、クラスで目立つ子たちについていこうとした。 部活も練習が週5日もある厳しい部活に入り、「人気者」になりたくて必死になった。 自分をごまかして頑張ったが、すぐにメッキは剥がれる。 目立つ子(いわゆるスクールカースト上層部)たちのグループからは疎まれ、目立たない子、 一人で居る子と過ごすようになった。 部活も次第に休みがちになり、中学1年の終わり頃には無断で退部してしまった。

またしても、「自分の居場所」を作ることに失敗した。

彼女に会いに行こうと思ったこともあった。最寄の駅まで行ったこともあった。

彼女は、間違いなく小学校の頃、私に居場所を提供してくれた存在だった。

電話しよう、手紙を出そう。 何度もそう思った。

それなのに、行動できなかった。

電話をしたら母親に見つかるかもしれない。 手紙の返事が来ないかもしれない。

…それは表面上の理由で、本当は、彼女のことが大好きなのに、私は自分から弱さをさらけ出せない、 助けてといえない、その思いに支配されていたのだと今になって思う。 「彼女に情けをかけてもらっている状態」は恥ずかしくて耐えられない。 そんな思いでいっぱいだったのだ。

とてももったいないことをしたな、と思う。

素直に辛いなら辛いと相談していたら、彼女なら聞いてくれただろうな、って。

 

(続きはまた後日書きます)

アダルトチルドレンと対人関係~その1~

アダルトチルドレンとは、育った環境で十分に愛情を注がれなかった人が、
大人になって様々な生き辛さを感じているときの状況を指す。

この「生き辛さ」は、私の場合、対人関係で壁にぶつかりやすいことで
表面に出てきていることに最初に気が付いた。

物心ついたときから、対人関係を築くのが不得手で、不器用だ。

母親に恐怖心を持って生きていたため、基本的に人は信用できないし、何よりも怖い。

幼稚園に入って、初めて母親と二人きりの世界から開放されたものの、
友達の作り方はさっぱりわからなかった。
わからないので、一人で遊ぶしかなかった。
幼稚園の先生にも、もっとみんなと話したりしてみよう、と何度もいわれたものだった。

幼稚園でこれといって仲の良い友達はできなかったけれど、
近所に同い年の女の子が引っ越してきた。
6歳の頃だっただろうか。
この子が、私とは正反対の性格で、大らかで優しい子だった。
よく遊びに行かせてもらって、自分の家、特に母親が全然違う雰囲気・発言なのでとても驚いたものだった。(この頃は、もちろんACとかそんなこと考えたこともなく、ただただ友達の家が明るくて、笑いが多くてうらやましかった。)

私にとって、自信を持っていえる人生最初の友達は彼女だ。

彼女は、私と積極的に遊んでくれた。時には意見が合わないこともあったけど、
次の日にはお互いケロッとしていて、いろんな遊びをしたものだった。
幼稚園にこれといって記憶に残るような友達はひとりもいなかったけれど、
彼女と遊んだいろいろなこと、1輪車やローラーブレードや、どれも楽しかった思い出だ。

彼女とは幼稚園は違っていたものの、小学校は同じ学校だった。
小学校で同じクラスになったことはなかったけれど、「友達と遊ぶ」といえば、彼女だった。

私は彼女が大好きだった。本当に大切な友達だった。

小学校に入って、彼女以外の友達もできるようになった。
その子たちの家に遊びに行ったり、誕生日会に招いてもらったりした。
それでも、もちろん彼女が一番の友達だった。

彼女が他の子と遊ぶ約束が入ってしまったときは、すごくがっかりした。
今思うと、これはやきもちだったのかもしれない。
それと、彼女を他の子にとられてしまうのではないか、という不安感。
彼女は、誰とでも仲良くなれ、そしてそれぞれと関係を築ける子だった。
私はそんな風には生きられないので、彼女のことがうらやましくもあったのだと思う。

彼女と今も友達でいられたらなぁ、と大人になっても思い続けている。

小学校4年の夏、父親の仕事の都合で、神奈川から東北地方の某県の県庁所在地のある町に引っ越すこととなった。
その話はとても急だった。その都市の梅雨頃だっただろうか。
突然、○○県に転勤になった、と母親がヒステリーを起こしながら伝えてきた。
その頃、父親は海外の仕事が忙しく、単身赴任ではないものの、海外出張から何ヶ月も帰ってこれないような生活が続いていた。
父親が居ない状態が長くなるのに比例して、母親はもともと頭がおかしいのに更に拍車がかかって、私を折檻し、ヒステリーを起こす状況が続いていた。
父親の急な国内転勤は、(母親の精神状況を考えて)海外駐在を断ったからだ、
と随分後になって父親から聞いた。

私はこの、父親の転勤が決まったことを知った際の母親の第一声が忘れられない。
「私は田舎になんて行きたくない!!」
母親は、父親の仕事でもなく、ましてや私と弟、子供の学校のことでもなく、
自分が田舎で暮らしたくないということしか考えていなかったのだ。
激昂する母親に対して、私はとても冷めた気持ちでいた。

断固、父親の単身赴任を希望していた母親であったが、結局、一家で引っ越すこととなり、私は転校することになった。

○○県××市。東北地方の某県の県庁所在地。××市と聴いて、最初は全くどこかわからない場所だった。
(十数年後、震災が起こり、世界中で知らない人がいない地域になるが)

東北地方の小学校はみんなそうなのか、夏休みが一週間短い。9月1日より一週早く、2学期が始まる。
それに合わせて、転校することになった。

すみなれた神奈川を離れる日。朝から天気が良くて、暑い一日だった。
彼女が、お別れに来てくれた。私は泣いてしまった。

お別れの手紙には、「文通しよう」としっかり書いてくれていた。
私は本当に嬉しかった。同時に、彼女に会えなくなるのがとてもさびしかった。

こうして、○○県××市での生活がスタートした。
残念ながら、私はここでの生活に中々馴染めなかった。
9月中に霜が降りるような寒い地域。12月前には雪が振り出すような地域。
温かい神奈川で暮らしてきた私には、寒さが肌身に染みるものだった。
転校先の学校の同級生も、東京から来た転校生が珍しいからなのか、
排他的な気がして、馴染み辛かった。彼らの方言、先生の方言も何を言っているのかわからないときがあり、神奈川に帰りたかった。

彼女との文通は、小学校卒業まで続いていた。彼女も含めて遊んでいた前の小学校のクラスメートの話だったり、他愛もない内容だった。

小学校6年にあがったころだろうか。彼女が、小学校卒業後、アメリカに行くかもしれない、と手紙をくれた(彼女のお父様はアメリカ人)。
そうしたら、文通は途切れるのだろうか、と思った。
私は私で、父親の○○県での仕事の任期が2年半、つまり私の小学校卒業のタイミングで神奈川に戻ることが決まっていたこともあり、○○県の中学への進学はありえなかった。
○○県で同じく馴染めない母親が、私立中学の受験勉強を私にさせるようになり、次第に彼女との文通は滞った。

2000年3月。ほとんど楽しいことがないまま、○○県の小学校を卒業した。
2000年4月、都内の私立中学に入学するため、また○○県を離れた。
2年半、住んでいたことになる。大人になると2年半はあっという間だけれど、
小学校4年の夏~6年までの時間は、もっと長く感じた。

東京に戻れる。また彼女に会えるかもしれない。

しかし、彼女に会うことは叶っていないままだ。

(続きは次回に残しておきます)

気分の浮き沈み

誰しもあるんだろうけど、自己認識では私はこの波が大きい。

いったん波が来ると、思考の悪循環に嵌る。
思考の悪循環に嵌ったところで解決しないことはわかりきっているのに、
一旦、嵌るところまで嵌って、力尽きないと考えるのを止めないところがあるので、結局、考え続けてしまう。

実家で暮らしていたときには、常に母親が同じ屋根の下に居たので、
なんとか自分の感情を見せないように振舞う方に意識が集中していて、
思考の悪循環に嵌りつつも、最終的には抜け出すのではなく、
別の問題(=母親)が出てきて、思考の全てを自分に向けられないので、
そのうち考えるのを止める、そんな感じだった。

一人で暮らすようになって、感情の波が押し寄せても、誰に遠慮することもなく、感情の悪循環に嵌ろうと思えば嵌れる状態になった。
そのため、感情の波に押し流されるときはそのまま一日中家にこもって
泣いたり、自堕落な生活をすることもできる状態になった。

感情の悪循環の抜け方として、嫌になるまでその感情に浸って考える、
しか方法を知らなかった私だけど、一人暮らしの環境に置かれたとき、
それが自分で自分を追い詰めている行動だということに気が付くようになった

感情の波は変らず押したり引いたりしているものの、
押し寄せたときに、感情に浸りきる以外の方法があるような気がしたのだ

わーっと、気が済むまで涙を流したらスパッと切り替える。
そうしたら、別に何も解決していなくても、意外とスッキリしているときがあったりする。

何も持たず、何も考えずに外に出る。
そうすると、もちろん本質的な問題はそのままなんだけれど、気分は開放されることがわかる。

感情に浸りきって悩み尽くせば、その問題の解決の糸口になるんだ、と
おそらく以前は潜在的に考えていたのだろう。
きっと今は、そうしなくてもいい、ということに自分自身で少しずつ気が付き始めているんだと思う。

何がこわいのか、つらいのか。

こわいこと。つらいこと。

不安感や孤独感など、私をアダルトチルドレンと自覚させる感情はあれど、
それが結局何に結びつくのかというと、
「こわい思い」・「つらい思い」に結びつくのだと思う。

不安感、孤独感も、きっと誰しもが多かれ少なかれ持っている感情であって、
もしかしたらそれ自体はプラスでもマイナスでもない感情なのかもしれない。

私の場合、これまでの記事で述べてきたように、「マイナスの感情」が
人一倍育ってしまっていて、「マイナスの感情」を感じるセンサーが、
「プラスの感情」を感じるセンサーの何百倍も敏感で、よく働いてしまうので、
「マイナスの感情」が自分の感情を満たすパワーが強いのかな、と思う。
そして強い強い「マイナスの感情」を「プラスの感情」に変えていくのは、
すさまじいパワーが必要なのかな、と。

私の脳内では、「不安感」「孤独感」=怖いこと、辛いこと。
そういう認識が刷り込まれてしまっているから、不安感や孤独感を感じると、
敏感に反応して、息苦しくなる。


何度か迷走神経反射と思われる発作を起こしたことがある。
何かの拍子に気分が悪くなってきて、
「やばい、ここで倒れる、ここで死ぬかも」という恐怖が襲ってきて、
呼吸が苦しくて、ものすごい吐き気がして、「なんとかしなきゃ」と
思っているうちに意識を失う。
しばらくすると、駅の救護室だったり、学校の保健室で横になっている
自分に気が付く。

「意識を失ったまま死ぬかもしれない」、という恐怖。
そして不安感、孤独感のループ。

迷走神経反射について調べると、低血圧等が直接的な原因のようだ。
究極に精神的に追い込まれたときに発作が現れるのか、発作が現れるほど
精神的に追い込まれているときなのか、どちらなのかはわからないが、
根底にあるのは強い強い「マイナス感情」だと思う。

マイナス感情は怖い。それこそ、文字通り自分自身を自分で喰らうパワーがある。

私はこのマイナス感情の元になっている孤独感、不安感など個々のマイナス感情を押さえきれないことがこわい。

感情自体にはそもそもプラスもマイナスもない。
それを捉える自分のセンサーの触れ幅が、その感情がプラスかマイナスか判断している。

発作は怖い。マイナス感情に自分が喰われるのももっと怖い。

負のスパイラルの怖さはもうよーくわかって、分析も自分なりにしてきたから、
あとは抜け出すだけだと信じたい。

自己肯定感について。

このブログで度々触れてきた、ACだと気づいた過程、AC回復の過程で
常々感じる、自分の自己肯定感の低さ。

自己肯定感とは、本来、子供の頃に、周囲とのかかわり(特に家族)の中で、
形成されていくものだという。

母親の責任に100%するつもりはないけれど、私の自己肯定感が低い理由は、
幼少期の生育環境に起因するものが大きいと思う。

自己肯定感の低さから生じる、劣等感や対人不信感。
子供の頃にもし自己肯定感の存在に気が付くことができていれば、
もっと早く軌道修正できたかもしれないけど、それは「たられば」の世界。

自己肯定感をきちんと持っている人って、どこかしら似ているところがある。
温かくて、正直、素直。一言でいうと、屈託のない明るい人。
こういう人に、私の人生でこれまで3人、出会うことができた。

正直、凄く憧れた、いや、憧れ続けている。
人は自分にないものを持っている人に惹かれるというけれど、
私にとってはまさしく、自己肯定感をきちんと持った人が当てはまる気がする。

羨ましいんだけど、一緒に居ると、そんな風にできない自分の劣等感が際立って
しまうので、せっかく出会えたのに、自分から距離を置いてしまった人もいた。

今思うと本当にもったいなくて、今からでも間に合うかな、また会いたい。

自己肯定感て、「私は私は」と自己主張することとは異なると思っている。
自己主張ではなくて、自分の人生に対して、主体的に考えて、かつ動いていけること。
それがおおまかにいうと自己肯定感を持っているかそうでないかの違いだと思う。

人間て不思議なもので、自分と同じように自己肯定感の低い人は、
どんなに飾り立てていても、心が虚しいんだろうな、というのが伝わる。
逆に、これまで私が出会って、自己肯定感を持った人は、たとえ大変な状況でも、精神が健康で強くて羨ましいと思った。自分より明らかに大変なのに、
精神の状態がまったく適わないと感じさせられた。

私の場合、幼少期に自己肯定感を育成し、高める土壌がないまま大人になった。
そのため、自分の人生をもう一度生き直すように、今、自分の自己肯定感を
自分で育てようとしている。

効率のよい方法とか、それ以前にノウハウでなんとかなるものではないだろう。

いろんなことを試しながら、わからなくなったり気が付いたり。

ただ、前に進んでいるんだ、と今は思える。

少しよくなったかな。。

 

 

自分にとって、人生にポジティブな影響を与えたもの。

このブログ、なぜACになったかの経緯とか、孤独感とか、基本的に暗い内容に終始しているので、逆に、プラスの、ポジティブな影響を与えたものについて記してみたい。

【子供のころ】
■読書
これまでの記事で少し触れてきたけど、子供の頃は、家に居るのが一番嫌いで、
学校が終わると市の図書館に行って、図書館が閉館するまで本を読んでいた。
特に好きだったのは、歴史、冒険、推理小説。「日本の歴史」シリーズとか、
江戸川乱歩」シリーズなどは、それこそ全て読んだような気がする。
読書が好きで、小学校低学年の頃の将来なりたいものは、「小説家」だった。
チラシの裏などに、簡単な絵と一緒に、お話を作っていた。
家に居るときは、母親に隠れて、お話を作るのがとても楽しかったし、安らいだ。

ただ、あるとき、母親に書き溜めていたのが見つかり、目の前で、
「こんなくだらないもの」といわれて、破り捨てられた。

母親に抵抗することなどできなかった。ただ心の底から、悲しい気持ちになった。

その瞬間、「小説家になりたいなどという夢を持ってはいけない」と悟った。

小説を書くことをやめた私は、家では図書館から借りてきた本を読んでいるようになった。
母親からは、「江戸川乱歩を読むなんて、お前は読書の趣味が悪い」といわれた。

それをきいてから、母親の前で読書している姿を見せないようにするようになった。

母親とのことを思い出すと悲しくなるけれど、読書は30になる今でも私にプラスの影響を与えている。


■水泳
「習い事をきちんとさせてやった」と見栄をはる母親のもと、様々な習い事に通った。
自分から自発的に通っていたものはなかったけど、この水泳だけは、中学に入る手前まで続いた。

最初は水に顔をつけるのすら怖がっていたのに、次第に浮けるようになり、泳げるようになった。
週1回(週2回通っていた時期もあった)、転校した地方の町でも通っていて、
小学校6年の頃は、学校の代表として市の水泳大会に推薦されるほど、泳げるようになっていた。

水泳をしているときは、ひたすら前を向いて泳ぐしかなかった。
何も考えなくてよい。多分、こういう特徴が私に向いていたのかもしれない。
それと、水泳は徹底的に個人競技(リレーとかを除いて)だ。
他者との協調が苦手だった私には、自分のやりたいようにやれる水泳はいい思い出だ。

また、30からだけど、始めてみてもいいかもしれない。

■英語、ドイツ語
以前のブログでも少し触れたが、ACに気が付くまでの過程、回復に向けた道程で、
語学が関係している。
日本語以外の言語で、外国人と話ができる、いろいろな文献に触れることは、
私にとって今でも楽しいことだ。なんというか、狭い世界にこだわっていた自分に
気が付いて、そして広い、こだわらない、多様な世界があることを言語はみせてくれる。

試験勉強は辛いけれど、外国語を話して、外国人とコミュニケーションをとることは楽しい。
それが長じて、異文化交流イベントなども私にプラスの影響を与えているものだ。


■海外出張、海外旅行
地図を眺めることが子供の頃から好きだった。父親が、3歳くらいだった私に与えてくれたものだ。
このブログにあまり出てきていないが、私にとって、父親はプラスの影響を与えた人物のひとりだ。
父親は、優しい母親(私の父方の祖母)の元、他の兄弟と平等に愛され、幼い頃にきちんと
自己肯定感を育み、大人になっている。そのため、母親と対照的に、優しい人で、
家が怖い私でも、父親の側だけは安全だとわかっているので、父親が家に居るときは楽しかった。
ただ、父親は海外の仕事をしていたこと、また仕事がとても忙しいこともあって、
平日は私が起きている(のを母親に許される)ような時間に帰宅することはほとんどなかったし、海外に長期で赴任していたので、とてもさびしい思いをした。

前置きが長くなったが、父親が置いていった地図を、ボロボロになるまで、
「今日はパパはどこにいるんだろう」と思いながら見ていた。
図書館で、世界の歴史や文明の遺跡の本などを読むと、心が高鳴った。

そんな幼少期を経て、中学3年の修学旅行で初めて海外に行った。
オーストラリアだった。家どころか日本を遠く離れて、言葉も通じない。
不便といえば不便だが、それを飛び越えてお釣がくるくらい、
私にとってはエキサイティングな体験だった。

社会人になって海外出張に行くようになったが、仕事の中では海外出張が最も楽しかった。
準備は面倒だし、休日はつぶれるし、なのに、私にとっては日本を離れて知らないところにいけることはとても魅力的なことなのだ。

お金はかかるけど、海外へ行くことを考えると、沈んでいた気分も少し明るくなるのである。

■国内旅行
海外旅行は上で書いたとおり私を捉えてはなさないものなのだが、国内旅行も好きだ。

47都道府県は全て行ったことがあり、各地の美味しい食べ物や、その土地の雰囲気を
味わうのは格別だ。

特に、社会人4年目から、毎年、京都に1、2回、ひとりで行くのが恒例になっている。
父親が関西出身ということもあってか、西日本に親近感を感じることが多い。
(それと、また今後触れるが、小学校4年のときに転校した地域<東北地方の某県庁所在地>が肌に合わなかったことも大きい)

真夏の京都、真冬の京都、秋真っ盛りの京都、早春の京都…。

どの季節も、それぞれのにおいがあって、情緒がある。

そんな京都を歩くのが大好きで、年に1、2回、ゆっくりと京都を楽しむのは私の密かな贅沢だ。

京都以外にも、長崎、大分、山口、四国各地、高野山、伊勢志摩、北海道、
色々な土地への旅行は私の楽しい思い出を大きく占めている。


…長くなってしまった。ポジティブなことを書くのは素直に楽しいね。
またポジティブな影響を与えたものについて書いてみたい。