人の顔色を伺うこと。

多かれ少なかれ、人の顔色を伺うことがあると思う。
通常は、その人の状態(感情や体調など)を把握しようとするための行動だと思う。

 

私の場合、母親の顔色伺いを幼少期のかなり早い段階ではじめていた。
母親は幼い私にとって恐怖であったが、その反面、絶対的な存在だった。
母親なんていなければいいのに、それか、私がここからいなくなってしまいたい。
そう思う反面、母親がいなくなったら、生きていけないかもしれないという恐怖。
相反する思いを幼少期から抱えていた。

母親の機嫌が良かったときを思い出せない。
もしかすると、そんなときはなかったのかもしれない。
怒り、憎しみ、妬み、僻み、被害妄想…そういったネガティブな感情を嫌というほど、母親から受けた。それは、顔色を伺うだけで伝染する強さを持っていたのだと思う。

それでも、私は今生きていて、30になる。
母親の顔色を伺って、瞬時に状態を判断する力がついた、といえばポジティブな皮肉だろうか。

今でも、他人の顔色を伺うことに関しては、抜かりがない。
良い面もある。いわゆる「空気をよむ」ことに長けているところだ。
しかしそれ以上に、苦しい面が大きい。
他人の顔色を伺うと、元気な状態の人からはエネルギーを分けてもらえる
(ただし自分が受け取れる状態にあればだけれど)。
しかし、もちろん、そうでない状態の人もいる。
そのとき、本来自分とは関係ないかもしれない負のエネルギーを、十分すぎるくらいいただいてしまうのだ。

ここで、他人の顔色を伺う→他人の状態(主に感情面)を感じる→ああ、この人は今日こういう状態なんだな、と
済ませられるならば、他人の顔色を伺うことは積極的にやってもいいと思う。

私の場合、他人の状態を感じる→それがネガティブな状態であればあるほど、それが自分に関係している、自分のことでもあると受け取ってしまうのだ。

これは、自分と他人の境界線を理解して、もっというと自分のアイデンティティを持って、他人と接することができるか、そうでないかの分かれ目、目安なのだと思う。

人には人それぞれの事情があって、その時々で気分も変るだろう。
それはとても自然なことだ。
だから、それが「私」と何の関係があるのか、勘ぐってもせいぜい自分の被害妄想が大きくなる程度で、意味がないし、とても疲れる。

何が言いたいのかというと、他人の顔色を伺ったとして、そして何らかの負の感情を感じ取ったとしても、それを自分がそのまま全部理解したり、自分のこととして受け取る必要は全くないんだ、ということ。

迷いが生まれそうなときに、自分でももう一回ここを振り返りたい。