人を信じること。自分を信じること。

人を信じることと自分を信じることは別、のように書いてある本もあるけれど、
私は人を信じることができるということは、その前提として自分を信じることができることなのだと考える。

長らく、母親をはじめとした身近な人を信じられない、自分は人間として何かが欠落しているのだ、という無力感を感じていた。
今でも、人を信じるコツがわかったのだろうか、と自分に問うなら、まだそこは「?」である。
ただ、ひとつ、自分なりに少しわかったことは、「人を信じられない」ということにフォーカスしすぎていていたということ。
「人を」という以前に、全ての判断の根源となる「自分」の軸がぼんやりしていて、自分に自信がない。
自分に自信がない状態=自分を自分で信じきれていない状態。その状態で、対象を「他人」にフォーカスしたら、それは信じる方法なんてちゃんちゃらわからないな、と。

 

人を信じられるようになりたい。ならば、私の場合は、まずは自分を自分で信じる道を確立するのが答えなのかもしれない。

…というと、途轍もなくハードルがあがる。学校の課題みたいに、練習問題を何題解く、と答えのみえている課題は親切だな~と思う。

 

これまで、何度か、いわゆる「カウンセリング」や「メンタル講座」を受けたことがある。
そのどこかで云われたのか、きいたのか、「何にでも(メンタルの問題も含めて)、答えを探求することが当てはまらない場合がある。答えを出すのはいったん考えないで、自分の心地の良いところで、落ち着けたっていい」ということ。

 

これ、最初は問題から逃げているのではないか、これでは結局廻りめぐって何も解決しなくて、心は苦しいままなのではないか、と思った。

最近、この考えも実は多いにアリかもしれないと思う。
問題の本質を極めて、どうしたら改善するかを考えることは、想像以上にエネルギーを消費する。
結果として、改善するかもわからないし、もっと別の問題と複雑に絡み合って、脳内息切れ状態に陥りそうだ。

だったら、答えはどこだ!見つけてやる!と息巻かないで、
今、自分にとって心地よい結論の置き場はどこなのだろう、
とそれだけを探すなら、かなり解き放たれる。ラクだ。

日によって言うことを変えるのは、仕事などではとても迷惑で、こういう上司にあたると残念だな~と思うけど、
自分の心の中の考え方がコロコロ変ったとして、それで自分が少しでも平穏ならもうそれで良い、
そんな風に今日は思うのだ。