このブログを開設するに至った経緯~その2~

2006年4月、これでようやく劣等感や孤独感から開放され、明るい人生が始まると期待に胸を膨らませて、大学生活が始まった。

この大学生活の中で、私は初めて自分が生き辛い、苦しいと感じていることに気が付いた。

そもそも、大学で勉強したいことなど、私には特になかった。
「勉強をする」こと自体の目的が、母親から認められたい、怒られたくないということに行き着くから、自分は何を勉強したいのか、何故勉強するのか、考えたこともなかった。
大学は、専門的な科目を勉強するところで、「勉強したい何か」がない私には、
大学の講義のほとんどは、興味が持てず苦痛だった。
高校生までは、「勉強さえしていれば」周りを気にせずに済んだし、なによりも
大学合格という明確なゴール、というよりは期間限定の何かに向かっていれば
それで済んだ。…つまり、私にとって人生は自分が主体になって楽しむものではなく、母親かその他の誰かの敷いたレールをこなすもの、になってしまっていた。自分の人生の歩みを、他人にアウトソーシングしてしまっている状態で10代を過ごしたのだが、その頃はまだそこまで気が付かなかった。

大学の専門科目には興味が持てず、しかし留年や退学ほど怖いものもなかったので、とりあえず講義には出席したものの、いつも別のことを考えているか、居眠りをしているか、周りと話しているかのどれかだった。周りと騒いでいたのは大学1年の頃だけで、次第に教室の隅っこで、一人で、誰の言葉も耳に入れないように、ただ講義が終わるのを待っていた。

専門科目以外の講義はまだ面白かったが、高校の頃までのように、「打ち込む」ことはなかった。

高校までの私のアイデンティティは、
「勉強が回りよりもできる(でも自分の意思で勉強しているわけではない)」
ことで、それ以外の私が私自身を認められるようなアイデンティティは何もなかった。
(部活、交友関係、恋愛、趣味、その他、なにひとつ人に話せるようなものはなかった。)

しかし、大学で「勉強が回りよりもできる」アイデンティティは消え去った。

何も誇れるものがない癖に、虚栄心だけは人一倍で見栄っ張りな私は、
周りに置いていかれることをとても恐れた。

とはいえ、中学時代にフェードアウトしてしまった苦い過去があり、サークル活動にはあまり興味がなかった。
また、お金は欲しかったが、大学に慣れるまで、バイトなどを始める気もなかった。

早速、自分から色々な可能性を閉じていたのだが、必修科目の第二外国語であるドイツ語は、クラスがあり、週に4日、授業があった。
このドイツ語の授業は私にとって楽しいものであり、週4日も同じクラスの人に会い、また大きな部屋での講義と異なり少人数だったため、自然とここが居場所になった。
(ACによくある白黒つけたがる極端思考のためか、「このクラスで馴染めればもういいや」くらいに考えていた。)

 

 

ここで、母親の次に私に大きなネガティブな影響を与えた人物と出会った。