うずくまるより、歩こう。

更新が滞ってしまった。

どこの会社もそうかもしれないが、例年、12~3月は仕事が忙しい。

自分の人生を、主体的に生きること、つまり、
自分の人生をひとつひとつ自分で選んで、それを楽しむこと、
そんな人生を送れるようになりたい、という期待は変っていない。

このブログは、その期待へのアプローチのひとつの手段で、
目標に近づくための試行錯誤。

今年はいままで全く気が付かなかったような新しいことを
いくつかやってみれたら多分楽しいと思う。

自分の家で、布団の中でうずくまっているのはすごーく居心地がいいけれど、
思考はネガティブスパイラルに嵌りやすい。
意を決して外に出ると、意外とスッキリしたりすることが多い。

「考える時間を持とう」と無理に身構えるより、
気分転換に外に出ながら、ふと考えに戻るときの方が、
自分の本心を見つめられる気がする。

酒をのんで、感情にのまれて。

更新が滞ってしまった。

年末なのに?年末だからだろうか。仕事が予想外に忙しく、時間が経ってしまった。

ようやく一息ついて、お酒でも飲んでいる今。

昼間から飲んでいたら、相当飲んでしまい、今かなり酔いが回っている頭でブログ更新に挑もうとしている。

 

ひとりぼっちの正月。慣れているはずなのに、ひとりでいる方が好きなはずなのに、

それでも孤独を感じてしまうのはどうしてなのだろう。

やることは沢山ある。掃除に、映画を観たり、漫画を読んだり、思いっきり昼寝したり。

ひとりぼっちだからこそ、誰にも邪魔されない贅沢な時間を過ごしているはずなのに、

それでもないものねだりをしてしまう。

 

毎年、今年一年を振り返ることは一応するのだけど、今年はこのブログを開設したので、ここで一年を振り返ろうか。

 

何か変わったことはあっただろうか。私にとって、諦めることや変化はとても前向きなことだ。変わることには、何らかのリスクだったり、怖さというネガティブ側面が、ネガティブ人間の私には目立って仕方がないからである。

 

結局、何も成長できていないじゃないか、とまた泣きたくなるような気持になる。

いつの頃からか、成長は可視化できないものだから、どこが成長したか考えるのもやめよう、と思うようになった。

 

白髪が増えた。しばらく出ていなかった迷走神経反射もまた起こり始めた。

身体は確実にダメージくらってるんだろうな。そう思いながら、酒とかやめられない。

 

なんか今日はこの続きを考えるのがつらい。また更新しよう。

 

 

いろいろ考えるのに疲れたら。

「考えるな、感じろ!」という言葉がある。座右の銘にしている人もいるかもしれない。

私も常々、自分の心が感じることに素直になろう、と思い、今までの生き方の癖を軌道修正しようとしているところ。

「考えるな、感じろ!」が難しいのは、理屈っぽいからと、結局あれこれ考えて、最悪な展開を十分予想して、結果をみる前から十分落ち込んで、ほぼ自暴自棄になって、考えすぎて疲れて、もう嫌だ面倒!となってからやっと「本当はどう思っているのか」に辿り着く、というプロセスを踏んでしまっているから。

最近は、以前よりすぐに「考えすぎ、もう嫌だ!」になるのが早くなった。
で、「じゃあ私の気持ちは素直なところどうなんだろう」、ここになるべく重点を置く。
素直な気持ちがわからなければ、それもよし。そう。それもよしとしてしまいたい。まだそこの思い切りが足りない。

結論を先延ばしにするのは、長らく「逃げ」だと思っていた。
白黒つけられないなんて、「逃げ」だって。
実はそれがかなり偏った思い込みだったのだと思う。

白黒つけたところで、自分が苦しくなるなら、頭捻って考えたことで自分の首を絞めることになる。
だったら、私はもう白黒つけなくても、何かに結論が出せなくても、いいや

「感じる」そしてそれに「素直になる」のも案外難しい。
だから私の場合、さらにそこをゆるーくして、「わからないものはわからなくていいや」と思うことにしよう

精神的にラクで居られるなら、それに勝るものは早々無い。

おかげでわからないものだらけになっても、それがいいことか悪いことか考えると疲れるし、わからないんだから、今はそれでいい。

 

 

やりたいこと?向いてること?

自分のやりたいことを見つけて、その道を邁進すること、私の理想のひとつだ。
手相診断でも、私はgoing my wayで、自分の信じた道を貫き通すと大成するらしい。

シンプルだけど、これ、私にはとっても難しいことだ。

そもそも、突進していくほどのやりたいことなんて、何もない。
やりたくないことは山のようにあるのに、何故、それと同じくらいやりたいことはないのだろう。

やりたくないことからは、当然、逃げる(母親と暮らしていた頃は、それすらできなかったが)。
私にしてみれば、やりたくないことから逃げられるようになっただけ、かなり生きるのが楽になったはずなのだ。逃げられるというか、選択肢の中に、逃げていいと思えるようになったというか。

そうすると、今度は平穏だけれど何もない感覚が広がっていく。
…やりたいことって何だろう???

私の場合、いやなことをどうしよう?→もう逃げよう、とできたが、
では、私がやりたいことって何だろう?→??????

やったほうがいいんだろうな、っていうことはたくさんある。
でももちろん、私みたいな人間が素直にじゃあやろう、とはつながらない。

視点を変えて、自分の向き・不向きの分析には自信がある。
対人関係にしても、仕事の内容にしても、「これは向かない」「これはいいかもしれない」とわかる。

突進してでも、自分の全部(精神力も体力も金銭も)を注ぎ込んででもやりたいことなんて、そうそうあるものでもなさそうだ。
それなのに、見つけられなさそうだと思うと、いったい自分の人生は何なんだろうと思ってしまうのは何故なのだろう。

母親と離れてこの数年、自分のやりたいことは何なのか、注ぎこめるものはどこにあるのか、探し続けていたら、ちょっと疲れてきた。
みつかったとしても、「これ」ってすぐに分かるかもわからないし、既に自分の身近にある何かがヒントになっているのかもしれない。

これも、見方を変えると、正当な自己認識が出来ていないことにも関係しているのかもしれない
自分がわからないから、やりたいことなんてもっとわからない。そこのところはシンプルだ。

どーしたらいいんだろうね。今日も明日も多分そう思い続ける。

人の顔色を伺うこと。

多かれ少なかれ、人の顔色を伺うことがあると思う。
通常は、その人の状態(感情や体調など)を把握しようとするための行動だと思う。

 

私の場合、母親の顔色伺いを幼少期のかなり早い段階ではじめていた。
母親は幼い私にとって恐怖であったが、その反面、絶対的な存在だった。
母親なんていなければいいのに、それか、私がここからいなくなってしまいたい。
そう思う反面、母親がいなくなったら、生きていけないかもしれないという恐怖。
相反する思いを幼少期から抱えていた。

母親の機嫌が良かったときを思い出せない。
もしかすると、そんなときはなかったのかもしれない。
怒り、憎しみ、妬み、僻み、被害妄想…そういったネガティブな感情を嫌というほど、母親から受けた。それは、顔色を伺うだけで伝染する強さを持っていたのだと思う。

それでも、私は今生きていて、30になる。
母親の顔色を伺って、瞬時に状態を判断する力がついた、といえばポジティブな皮肉だろうか。

今でも、他人の顔色を伺うことに関しては、抜かりがない。
良い面もある。いわゆる「空気をよむ」ことに長けているところだ。
しかしそれ以上に、苦しい面が大きい。
他人の顔色を伺うと、元気な状態の人からはエネルギーを分けてもらえる
(ただし自分が受け取れる状態にあればだけれど)。
しかし、もちろん、そうでない状態の人もいる。
そのとき、本来自分とは関係ないかもしれない負のエネルギーを、十分すぎるくらいいただいてしまうのだ。

ここで、他人の顔色を伺う→他人の状態(主に感情面)を感じる→ああ、この人は今日こういう状態なんだな、と
済ませられるならば、他人の顔色を伺うことは積極的にやってもいいと思う。

私の場合、他人の状態を感じる→それがネガティブな状態であればあるほど、それが自分に関係している、自分のことでもあると受け取ってしまうのだ。

これは、自分と他人の境界線を理解して、もっというと自分のアイデンティティを持って、他人と接することができるか、そうでないかの分かれ目、目安なのだと思う。

人には人それぞれの事情があって、その時々で気分も変るだろう。
それはとても自然なことだ。
だから、それが「私」と何の関係があるのか、勘ぐってもせいぜい自分の被害妄想が大きくなる程度で、意味がないし、とても疲れる。

何が言いたいのかというと、他人の顔色を伺ったとして、そして何らかの負の感情を感じ取ったとしても、それを自分がそのまま全部理解したり、自分のこととして受け取る必要は全くないんだ、ということ。

迷いが生まれそうなときに、自分でももう一回ここを振り返りたい。

人を信じること。自分を信じること。

人を信じることと自分を信じることは別、のように書いてある本もあるけれど、
私は人を信じることができるということは、その前提として自分を信じることができることなのだと考える。

長らく、母親をはじめとした身近な人を信じられない、自分は人間として何かが欠落しているのだ、という無力感を感じていた。
今でも、人を信じるコツがわかったのだろうか、と自分に問うなら、まだそこは「?」である。
ただ、ひとつ、自分なりに少しわかったことは、「人を信じられない」ということにフォーカスしすぎていていたということ。
「人を」という以前に、全ての判断の根源となる「自分」の軸がぼんやりしていて、自分に自信がない。
自分に自信がない状態=自分を自分で信じきれていない状態。その状態で、対象を「他人」にフォーカスしたら、それは信じる方法なんてちゃんちゃらわからないな、と。

 

人を信じられるようになりたい。ならば、私の場合は、まずは自分を自分で信じる道を確立するのが答えなのかもしれない。

…というと、途轍もなくハードルがあがる。学校の課題みたいに、練習問題を何題解く、と答えのみえている課題は親切だな~と思う。

 

これまで、何度か、いわゆる「カウンセリング」や「メンタル講座」を受けたことがある。
そのどこかで云われたのか、きいたのか、「何にでも(メンタルの問題も含めて)、答えを探求することが当てはまらない場合がある。答えを出すのはいったん考えないで、自分の心地の良いところで、落ち着けたっていい」ということ。

 

これ、最初は問題から逃げているのではないか、これでは結局廻りめぐって何も解決しなくて、心は苦しいままなのではないか、と思った。

最近、この考えも実は多いにアリかもしれないと思う。
問題の本質を極めて、どうしたら改善するかを考えることは、想像以上にエネルギーを消費する。
結果として、改善するかもわからないし、もっと別の問題と複雑に絡み合って、脳内息切れ状態に陥りそうだ。

だったら、答えはどこだ!見つけてやる!と息巻かないで、
今、自分にとって心地よい結論の置き場はどこなのだろう、
とそれだけを探すなら、かなり解き放たれる。ラクだ。

日によって言うことを変えるのは、仕事などではとても迷惑で、こういう上司にあたると残念だな~と思うけど、
自分の心の中の考え方がコロコロ変ったとして、それで自分が少しでも平穏ならもうそれで良い、
そんな風に今日は思うのだ。

 

自分を認めることってなんだろうね

 

自分を愛すること。自分を認めること。

 

「自己肯定感が低い」ことの根底には、自分に自信がないこと、
もっと突き詰めると、自分を認められない、受け入れられない状態がある。

誰しも、真っ白な状態(なんの情報も持たない状態)で生まれてきて、
周囲との関りの中で、自分を認識していく。

結局のところ、30にもなって、私はまだ客観的に、自分の認識がしきれていないのだと思う。

他人の顔色を伺って、ご機嫌取りをしてしまう。
それは、決断を他人にゆだねているのと同じ。

頭では理解している。けれど、30年間で染み付いてきた行動パターン、その根源の性格を変えることは想像以上に大変なことだ。

アダルトチルドレンについて、様々な情報に触れてきた。
「ありのままの自分を受け入れていこう」というアドバイスを何度か目にした。
そもそも、「ありのままの自分」自体がわからないところまで状況が進んでいる人間は、まずは「ありのままの自分」とはどういう状態なのか、それを自分の手元に持ってこないと話が進まない。

私の場合は、「ありのままの自分って、そもそもどういう状態?」というところからのスタートだ。

家庭内で、正常に自己認識ができなかった。
家庭以外の場所でも、自己認識をしていくことは難しかった。

結果、自分のことが自分でまるでわからない、自己認識できない=決断・判断が困難、な状況にいたったのかもしれない。

今日書いていることは、かなり自分を責めていることかもしれない。

自己認識が正常に育たなかったのは、自分だけの問題ではないだろう。

けれど、他人に甘える、頼ることもできずに生きてきた私は、どんなに困難な問題にぶつかっても、自分で全て抱え込んで、解決していくしかない。

必要以上に難しく考える性格が、今日は徹底的に私を批判している。
辛くなってきたので、また考えて、何か書こう。